前回の続きを書きます。
2011年3月11日(金)、小田原にある病院の会計フロアにあったテレビで、
水浸しの街を見た。その時は、それがどういう意味があるのか、明確に分かってなかった。
つまり、一部の街の、一部の被害状況なのかという程度かと思った。
本当はテレビに食い入るように見たい気持ちはあったが、
手持無沙汰とは言え、形式上は勤務時間であったので、
一度、待機場所に戻る…が、相変わらず、無線PCは使えず
地震の被害状況などいまいちつかめない。
いつからか、小田原の街に大津波警報が発令されたアナウンスが流れていたが、
結局いつまで流れていたのだろう。
夕方17時は過ぎたころだろうか、仕方なく出張先から戻ろうと駅へ行けば、
案の定電車は動いていなかった、ことは確認したか、今となってはハッキリ覚えてないが、
上司とは、食事して時間が経ったら事態も収まるだろうからと、食事に行くことにした。
食事の間、覚えているのは、携帯電話がつながりにくいことだった。
そこで、一度、俺だけお店を出て、近くの公衆電話へ向かったが、行列。
たまたま、会社の出張所が近くにあり、固定電話を使って会社へ電話することができた。
会社では、帰宅できずにいる社員が電話にでて、お互いの安否を確認した。
電話の前後、出張所にいた社員たちが見ていたテレビで、被害が徐々に
明確になってきたことを確認したと記憶している。
お店に戻り、上司と再び食事に戻った。そうそう、お店は、俺と同様、
電車再開を待つような方々が多かったようだ。
結局、20時前だったか、電車での帰宅は諦め、近くに宿をとることにした。
上司と共にお店を出て、小田原駅周辺にある宿に向かった。向かったが、全て満室だった。
そりゃそうだ、帰宅できない多くの人が、俺と上司より早く宿をとったんだ。
満室を確認しては次の宿、次の宿へ向かった。携帯電話が使えないから、足でホテルを巡った。
そうしていたのは、俺たちだけじゃなかった。
何十件回ったか覚えてないが、結局、隣の街へ歩こうとなった。夜21時は過ぎてただろうか。
行く方向を間違えると、一日中歩く可能性もある。行く先は箱根と決めた。
箱根方面への道路はすいていた。タクシーに乗りたかったが通らなかったと記憶している。
逆に東京方面の自動車が渋滞していた。あれはメガネスーパー本社前の道だった。
箱根の方向は分かってても、確信持てず、しかも疲れていたので、
とぼとぼ1時間ほど歩いただろうか。途中で箱根方面へ向かうバスがやってきた。
それに乗り、一気に箱根湯本駅まで向かい、降りた。
観光客のキャンセルがあったのか、最初に訪れたホテルに空きがあり宿泊できた。
上司と2人1部屋となった。
ホテルの部屋でテレビをつけて、地震の被害状況を改めて思い知らされた。
文字にするのも憚れるニュースが流れていた。上司は淡々と仕事のことで、
多少はつながる携帯電話で関係者と話をしていたが、私は仕事よりも
被害の状況を理解しようと、まずは胸騒ぎを抑えようと努めていた。
ホテル(だけではなかったらしいが)の公衆電話は無料で使えたので、
東北の実家に電話した。実家では停電となってしまっており、寒い3月、
暗くテレビもつかない部屋で、ラジオだけをつけ、布団にくるまっているという
家族と話をした。ホテルのテレビを見た分、改めて家族が無事であることに安堵した。
夜中眠っている最中、設定していない携帯電話の目覚まし時計が鳴った、
いや、マナーモードが解除されて、聞きなれない着信音がけたたましく鳴った、
いや、それが地震を知らせる警報音と知ったのは、夜が明けた日以降だ。
寝ている上司を起こしてはまずいと、寝ぼけた状態で懸命に、うるさい携帯電話を
探し音を止めようとした。が、鳴っていたのは、俺の携帯電話だけじゃなかったことが
冷静に時間が経てば経つほど、思い起こされる。
次の日の朝、土曜日、9時頃、小田原のお客様の安全を改めて確認した後、
相模大野にある別のお客様の安否を確認しに向かった。
向かう途中、通常なら1時間程度で済む移動も、4時間ほどかかった。
電車が慎重な移動を重ねた為、待ち時間も長ければ、実際の移動時間も長かった。
その移動中、ワンセグを使ってニュースを逐一確認した。
すると今度は原発の話が大部分を占めていた。今度は一体何が起こったんだと、
これまた状況をしっかり理解できずにニュースに食い入った。
相模大野のお客様の安否が確認できて、やっと帰宅の途に就いた。
夕方16時くらいだったろうか、自宅の近くまで来てドラッグストアで買い物をし終わった矢先、
今度は、携帯電話が鳴った。小田原のお客様からだった。テレビを見てるかとのこと。
結局、ワンセグは場所によってつながり悪く、相模大野からの帰りはそれほどワンセグを
見る機会が無かった。そんな中、お客様から言われたことは、計画停電に向けて
協力して欲しいという話だった。何だか休む暇もない。また何時間かかけて
小田原に戻るのかと思った。が、よくよく詳細を確認すると月曜から対応が必要かも
ということで、一旦、家に戻った。
と、ここまで記載したのは、あの日の出来事を忘れたくないという気持ちがあり、
文字にしたかったこと。それに、ちょうど2011年2月、剣道再開後初めて昇段審査に挑み、
四段合格した時期でもあり、剣道に、気持ち新たに取り組もうと思った頃だった。
そこで、それまでよりも素振りに取り組む頻度は上がった。ちょうど、その頃の地震で、
しかも、原発の問題が生じた。すると、外に安易に出るのを控えることになり、
結局、外での素振りは当分控えたという状況につながった時でもあった。
私の剣道へ取り組もうとする気持ちや行動に大きな影響を与えた出来事でもあった。
また、改めて、関連する話をします。今日は長く書きすぎた。
けなも
2012年3月20日火曜日
2012年3月11日日曜日
3/11
1年前の今日、つまり、2011年3月11日(金)、私は小田原で仕事をしていた。
小田原のお客様との打ち合わせを控えていた。そして、午後2時46分頃を迎えた。
最初、地震と言うよりは、小田原の地で何かが起きたと思った。
お客様先の建物の中で待機していたが、揺れの中、外へ出た。
周りにあった木が揺れていた。駐車中の車が揺れていた。
周りの人々もその揺れに「何が起きているのか。」という疑問に対する答えを探ったと思う。
つまり、すぐにそれが地震とは確信できなかったと思う。
あとで分かったが、震度4弱。それ程の揺れを体感したのは初めてだった。
しかし、今度は、それがどの範囲なのか、想像はつかなかった。
2回大きな揺れが来た。異常だと思った。
その後、無線LANで使っていたPCが使えなくなった。
当然、お客様も仕事どころではなく、すぐにお客様内で地震時の緊急体制がとられた。
そして、当然、私もその日の仕事は全てキャンセルとなり、一気に手持ち無沙汰となった。
間もなくして、近くの病院にむかった。会計で人が集まるフロアにテレビがあった。
そして、その画面には水浸しのどこかの街が放映された。何が起きたんだろうと思った。
一旦、ここまで。間もなく、黙祷の時間だ。
けなも
小田原のお客様との打ち合わせを控えていた。そして、午後2時46分頃を迎えた。
最初、地震と言うよりは、小田原の地で何かが起きたと思った。
お客様先の建物の中で待機していたが、揺れの中、外へ出た。
周りにあった木が揺れていた。駐車中の車が揺れていた。
周りの人々もその揺れに「何が起きているのか。」という疑問に対する答えを探ったと思う。
つまり、すぐにそれが地震とは確信できなかったと思う。
あとで分かったが、震度4弱。それ程の揺れを体感したのは初めてだった。
しかし、今度は、それがどの範囲なのか、想像はつかなかった。
2回大きな揺れが来た。異常だと思った。
その後、無線LANで使っていたPCが使えなくなった。
当然、お客様も仕事どころではなく、すぐにお客様内で地震時の緊急体制がとられた。
そして、当然、私もその日の仕事は全てキャンセルとなり、一気に手持ち無沙汰となった。
間もなくして、近くの病院にむかった。会計で人が集まるフロアにテレビがあった。
そして、その画面には水浸しのどこかの街が放映された。何が起きたんだろうと思った。
一旦、ここまで。間もなく、黙祷の時間だ。
けなも
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