2013年1月31日木曜日

道を究めるということ

ついさっき「オデッサの階段」というテレビ番組を見た。
野村萬斎が出演していた。ご自身の息子さんを狂言の
舞台に立たせた瞬間を思い出した際の場面で、狂言の
道を歩ませ始めたという実感を振り返り、涙を流した。

息子さんは、なぜ狂言をやるのか萬斎に何度も問うたという。
しかし明確な答え(応え)は無かった模様。息子さん曰く「分からない」
(というセリフは萬斎の言葉のことだったのか不明だが)。
次に、萬斎のお父様・万作が出演。狂言一家、同様の問いを
抱いたという紹介があった。そして、万作は言った。自問自答しながらも、
結局、自らが選んだ道とのこと。

深いと思った。

俺が剣道を再開したきっかけは、小学生時代の恩師が
試合する姿を見たことにある。

それまでの剣道感は、試合に勝てないと意味が無いと思っていた。
だから、その流れに乗ってない俺の剣道は意味が無いと思っていた。

恩師は、過去から優勝実績豊富で、当然勝つと思っていた。
崇高な剣道する姿を想像していた。

しかし、恩師の剣道をする姿は、決して完璧でなかった。
そして、決勝で負けた。その瞬間、俺の剣道感の何かが変わった。

試合に勝てる剣道しか意味が無いのか。
続ける価値ある剣道を、崇高過ぎるイメージで祭り上げてなかったか。
「勝てる剣道」という、自らの勝手な想像で、自分を疲れさせてなかったか。

正しい剣道で、息長くやることに意味あるのではないか。
そう思い直した。

試合に勝つ・負けるは、二の次で、でも強く正しい剣道でありたい。
そう思い直した時から、高校時代の範士八段の教えが少しづつ
心に沁みてき始めた。

さて、萬斎の話に戻る。

道を究める。どれほどのことか俺は分かっていない。
このまま剣道にのめり込もうとする自分が、どこに行ってしまうことになるのか
怖くなることがある。その先、何があるのか、全く想像もつかない。

しかし、そんな時、萬斎の話を思い返してみたい。
一度しかない人生を狂言師として歩む姿、歩まざるを得ない運命、
そして、選んだ道。
「狂言師でなかったら」きっとそんな人生を想像したのではないか、
息子さんも。

俺の剣道に向き合う気持ちは、まだまだ中途半端だ。
何かに恐れる気持ちがある。人として小さすぎる。
仕事に対してもそうなんだと思う。覚悟が足りない。
「辞めることもできる。」そんな後ろ向きな気持ちを持つ自分が恥ずかしい。

本日も200本済。

けなも

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